「やる気」を出して、バリバリ集中して物事に取り組みたい、と誰もが考えると思います。
あなたもそうでしょう?
周りの人達は、どんどん結果を出しているようにみえる、、、。

あれ、、?自分だけ遅れてる?結果が出せていない、、。
なんて考え出したら、もう頭の中で様々な「物語」が始まって、一日が台無しになってしまう、、。
そんなことありませんか?
わたしはよくありましたね(笑)
その時に色々書籍を読んだり、瞑想に行ったり、、、。
あれこれ試して、そのときは大丈夫!と思うのですが、しばらくするとまた同じ感情が出てきてしまう、、。
そんな繰り返しから早く自由になりたい!と考えて、いまは少し自由になった感があります。
どんな考え、実践をしてきたのでしょうか??
その答えは、「観察」です。
エックハルト・トールやガンカジの書籍から、様々のヒントを得て、この「観察」という点にたどり着きました。
ここでは「ガンカジ」の「ポケット中のダイヤモンド」から気に入った言葉を紹介していきたいと思います。
ガンガジ ポケット中のダイヤモンド
パート1 本当の自分発見への招待
まずは第一章(part1)ですが、その前の序文をエックハルト・トールが書いており、これがガンガジの伝えたいことの要約として頗る優れたものと言えます。
「わたしとは起きる出来事のことではない。出来事の起きるスペース(空間)、それが私である。」この知覚、この生きた真実こそがあなたを形象との同一化、時間、そして頭で作り上げた偽の自己イメージから解放する。すべての出来事が起きるスペースとはなにか?それは形以前の意識そのものである。
私達がわたしだと認識しているものは、わたしの本質ではないのだ。
頭のなかで物語がどんどん始まり、ああでもこうでもない、過去のことを思い起こし、未来の起こるかもしれないことに恐れおののき、と時間を使ってしまう、、。
そういったものを観察していくと、物語が進んでいく、観察している、そしてその「場」があることに気づいてくる。
われわれの「物語」の奥底に流れている「存在」こそがわたしの本質である、と気づくのです。
あなたの望みは一体何か?
われわれは覚醒したい、悩みから開放されたい、という望みがあります。そういった望みはどうすれば達成されるのでしょうか?
もはやこの問いかけ「どうすれば」が必要ないわけです。
ガンガジは「あなたの存在の本質の真実に対して自分を開くということは、すなわち受け入れるという行為」であると言っています。しかし、われわれにはそうすることが、非常な恐怖を感じるように条件付けられていると語ります。
「心をひらくとあなたは傷つくぞ。」と絶えずエゴが語りかけるんですね。
しかし、それをだめだと考えて、心を開く努力をしろ!とは言いません(笑)
その感情の起伏や頭のなかで進んでいく物語をただ観察する習慣を身に着けていけばいいんです。すると、ある時「おや、この物語は過去に起こったことを「今」思い起こしているだけだぞ。まだ起こってもいない未来のことにつなげて不安がらせているだけだぞ」と観察できるようになります。
ガンガジは言います「あなたという存在の核心の周囲で心がバラバラになるような出来事がいくらあったとしても、あなたの核は完全なままそこに在るのです」。

「あなたの知性の源である静けさに心を開くことは、すなわちあなたの真の姿に対して自分を開くということです」。

「心を開くことで物語が「変化」するのではありません。実際にそれは存在しないということが明らかになるのです」。
この心を開くことと、物語を観察して自分とは関係ないことに気づくことがまずは大切ですね。
次に自分が求めているものは何かと言う問題。お金でしょうか?ソウルメイトでしょうか?他の社会的安定を担保する状態でしょうか?
では、それが今、あなたに備わっているとすれば、一体どのように感じるでしょうか?
「そうしたら私は心の平安を得て、ゆっくり休息できる」。
というものであれば、それは外部の状況とは関係なくたった今、可能なのです。
つまり、われわれの外側にはそういった平安はなく、内側にすでに備わっているのです、と説明するわけです。
そこで自分自身にこう問いかけましょう、
「わたしが本当に欲しいものはなんだろう?」と。
そこから自分とは何か、という本質に近づいていきます。あなたは誰ですか?わたしは誰なんですか?
そこには何もない、意識としての存在が横たわっていませんか?

「思考」が起こる、「物語」が始まる、その前にただ存在しているモノがわたしの本質ですよ。
あらゆるものは変化する。しかし、我々の本質である「意識」は変化しない!
ここまでが第1章のまとめです。
なかなかおもしろそうでしょ!
パート2 思考を超え、感情よりも深く
この章も読み応えがある文章で思考を「止める」という点について、ヒントが書かれています。
特に「20・理性が沈黙にひれ伏すとき」が一番わかりやすい表現だったかな、と個人的には考えます。
「止める」とはつまり、思考に思考を重ねないこと、過去の出来事を頭のなかで繰り返し、夢想に耽らないということです。〜いつでもじっとして動かない存在に気づく可能性があるのです。(p112)
そういった「止まる」事ができるようになれば、様々な(今と変わらない)人生の試練に、これまで以上の明瞭さと見識をもって対処することができます。こうした状況と自分自身を混同することがないのです。
様々なことが人生の中で起きてきますが、状況、感情、良い出来事、悪い出来事といった登場人物が登場する劇場、それは神の劇場です。それを避けるのではなく、愉しむためにあるのです。(p114)
21 精神的な修練(p115−)
様々な人々が「真の自己実現」を目指して行動を起こしています。瞑想であったり、アファーメーションを唱えたり、マントラを得たりヴィジュアライゼーション(視覚化)に励んだり。
そのような人々に対してのアドバイスは、「なにもしないこと」と喝破されます。
瞑想を例にとって説明すると、「私とはこの肉体でありこれらの思考であり、感情である」という瞑想にふけっている。
それでは「苦しみの瞑想」になってしまう。
自分の真の姿とは永遠の静寂である。
ポケットの中のダイアモンド p123
われわれが様々な感情をもって、ああでもないこうでもない、ああしなきゃこうしなきゃ、ああすればよかったなどの後悔や未来への不安や期待を抱いている、行動は「静寂」という大きな土台の上で行われている。
22 思考による概念の非永続性
日常を過ごす中で、我々はやはり「いい感情」をいだきたいと考える。もちろんそうですよね?
楽しいこと、嬉しいことでいっぱいにして、ポジティブな感情で日々過ごしたい!それが幸福だ、といった感情は誰しもが持っていることだと思います。
嫌な感情や出来事は遠くに追い払いたい、当然ですよね?
ガンガジはその点も明確に例として上げながら、本質を説明します。
「一過性」のものと「永続性」のあるもの。
本質はどちらか?
そう、「永続性」のあるものです。では、考えてみましょう。あなたの今の感情、思考などというのは「永続性」のあるものでしょうか?
永続性のあるものではなく、単に一過性のものであることに気づいたのではないでしょうか?
あなたが5歳だったときの自己認識は、15歳、50歳、90歳のときのそれとは違います。観念とは生来一時的なものなのです。自分が誰であるか、といういかなる観念も永続性のないものであることに気づいてください。そして永続性のないものには本質的な真実はありません。このことを完全に認めるとき、すべての思考活動は停止します。
ポケットの中のダイヤモンド p125
あなたという存在の本質の不変性は、変わらぬ意識そのものである。
続きます